私性

生命。意識。生命は遠いもの、隔たりのあるもの、媒介的なもの。私には諸々の感覚表象の一定のまとまりがある。私は自分が生きていることを知らない。生きていることも死ぬことも、私からは遠い。私は死にたくない、死の表象と恐怖の感情。生きるとは死の否定としてしか知られ得ないのでは。自己否定の否定としての生命。ある感覚の継起としての私。私という言葉で私は何を指示し、また意味しているか。発話主体そのものではない。(私は、話している)と、私が話すとき、既に私は別の場所に移動しており、発話内容の中には、かつてそこに私が存在したという事実を指示する意味しかない。私は、いかなる言葉によっても絶対に汲み尽くす事が出来ない。私とはまず私自身にとって影であり、従っていかなる他者にとっても影である。私が私を意識する時、既にそこに私はいない。だがこれは万物の構造であるというよりも、意識一般の構造である。万物は意識されるものとしては、意識対象として、私と同じく常に影であるが、万物はそれが物理的実在である限りは、このような意識構造を否定することが規定に含まれている。従って、私はある物を、意識対象としてしか受け取らないが、ある物は、意識されなくても存在するものとして定義されている、という形で、絶えず私の意識から逃げていく。だが、これも一つの主体モデル、主体観に過ぎず、主体形成機能を有する言説であり、イデオロギーである。主体性の多様性とは、異なる主体というよりも、異なる主体性に対する思想と、主体形成そのものの機構の多様性のことである。また、影であることは実体の存在を前提し、また影に関しては知りうることを意味する。複数の異質な影や、影の色彩といったものこそ重く見られるべきである。