私性

生命。意識。生命は遠いもの、隔たりのあるもの、媒介的なもの。私には諸々の感覚表象の一定のまとまりがある。私は自分が生きていることを知らない。生きていることも死ぬことも、私からは遠い。私は死にたくない、死の表象と恐怖の感情。生きるとは死の否定としてしか知られ得ないのでは。自己否定の否定としての生命。ある感覚の継起としての私。私という言葉で私は何を指示し、また意味しているか。発話主体そのものではない。(私は、話している)と、私が話すとき、既に私は別の場所に移動しており、発話内容の中には、かつてそこに私が存在したという事実を指示する意味しかない。私は、いかなる言葉によっても絶対に汲み尽くす事が出来ない。私とはまず私自身にとって影であり、従っていかなる他者にとっても影である。私が私を意識する時、既にそこに私はいない。だがこれは万物の構造であるというよりも、意識一般の構造である。万物は意識されるものとしては、意識対象として、私と同じく常に影であるが、万物はそれが物理的実在である限りは、このような意識構造を否定することが規定に含まれている。従って、私はある物を、意識対象としてしか受け取らないが、ある物は、意識されなくても存在するものとして定義されている、という形で、絶えず私の意識から逃げていく。だが、これも一つの主体モデル、主体観に過ぎず、主体形成機能を有する言説であり、イデオロギーである。主体性の多様性とは、異なる主体というよりも、異なる主体性に対する思想と、主体形成そのものの機構の多様性のことである。また、影であることは実体の存在を前提し、また影に関しては知りうることを意味する。複数の異質な影や、影の色彩といったものこそ重く見られるべきである。

  1. ・歴史の運動は様々な力の合力によって生じる。大部分の一人の人間は、成人すれば生活資金を獲得するために労働する。だが、自分では労働せず労働を統制支配する階級が存在している。この少数の支配層の歴史規定力が圧倒的に強いのが資本主義的な階級社会であるが、このように支配と被支配の関係があり、歴史の方向性は少数の支配層に左右されているにも関わらず、大局的には、真なる歴史主体としてのプロレタリア階級が、歴史を前に進めている。つまり偽の力による歴史規定は表面的なもの、現象的なものに過ぎない。

    マルクスがいわゆる「唯物史観」を考えるに至ったのは、一つはヘーゲル弁証法的な歴史把握であり、一つは実証的な歴史研究を手段としたはずである。特にヘーゲル歴史哲学の唯物論的な批判が最大の契機だったのではないだろうか。
  2. DEC
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    一、
    我々のあらゆる生は、その全ての行為と出来事は、我々が「生きている」というそのことに基づいている。霊的な次元を問わないならば、万民が何を欲しようとまず生きていなければならない。しかし、我々は常に多数の生命を奪って来た。戦争がその最たるものであり、貧困を必然化する社会システムがあり、事故もあれば過誤もある。殺害は他者になしうる最大の悪であり、罪をなす。人類の文明は諸々の面で発展したが、犠牲も比例的に大きくなっている。核の脅威は未だ世界から取り除かれてはいない。
    一、
    意味と価値というものは、無意味と無価値との絶えざる戦い、否定、拒否である。我々は歴史や人生の意味を問い、その無意味を結論することが可能だが、絶えず無意味を否定することも可能である。寧ろ、生とはこの無意味性=死(無)との戦い無くして維持できない。死は最大の悪であり、罪である。

     
  3. DEC
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    一、

    読解における感性とは、主体に感情的な反応やある種の精神的な効果を齎す主体の側の能力のことであるが、一般には、芸術的な言語作品は、科学や哲学のように知識を与えることそのものに目的があるのではなく、ある種の精神的な、感情的な経験を与える所に主目的がある。従って、精神的な経験を与える主体の受容能力を感性と換言してもよい。そして精神的経験のうちで特に感動と言われる経験に、文学の目的の第一があるだろう。

    読解過程には様々な精神的な働きが重層的に生じているものと考えられるが、特に物語内容と読者の知識経験とが複雑に反応しあって、読み進められる。批評は個々の主体の主観的な問題には踏み込めないが、物語の側と、一般的な主体モデルとの関係においては、作品の意味を扱うことができる。読者の主観性が、程度の違いはあれ、一般的主体としての性格を持つ以上は、批評は読書経験に寄与することができる。

     

     
  4. DEC
    3
     

     

    一、

    カント「純粋理性批判」の学びの必要。ヘーゲルの読み方をカントに習うのは本末転倒であるかもしれないが、ヘーゲルのダイナミズムは緻密なカントの論理を前提にしている。カントかヘーゲルか、などという歴史的評価の問題にはさして関心はない。また、ヘーゲル的な精神の発展史としての哲学史の問題は重要だが、カントのアクチュアリティはその普遍性に存する。

    一、

    現代文学の問題ー文学が扱うべき問題とは常に、歴史的普遍性のある所に存する。普遍性は寧ろ一般的な意味での合理性を裏切ることで合理性を可能にするようなファルマコンであり、危機であり、ポエジーの湧出する淵源でもある。批評は文学作品の扱う普遍性を正当に見極めることで作品の価値を評する。この作品の内包する普遍性=批評性は、作品の主題と合致していることもあれば、主題を裏切って別の点に意識的にか無意識的にか存在することもある。批評的価値とは質的価値であり、直ちに量的価値ではない。作品の内包する「意味」を展開することが批評的読解であり、この質的価値を量的価値に変換するときに、他の作品との相対比較が要請され、いわゆる価値(=交換価値)が成立する。

    一、
    カントの数学の純粋性とは、およそ数が万物の最も抽象的な質である単一の量(=1)でできているから、それを「純粋」と呼ぶ。あらゆるものは最も抽象化されるなら、1にしかならないからである。この意味は、先天的認識を行う理性(純粋理性)が、あらゆる経験から蒸留なり還元されることで見出される、という意味での「純粋性」とは異なるように見えるかも知れないが、純粋理性もまた、さらに1という数に還元することが可能である。この1という数は、存在と同義である。カントの第一批判は、純粋なる理性を主張するものではなく、むしろ純粋なる理性のその純粋さへの批判の意味を含んでいるが、純粋さを認識の問題として扱うなら純粋理性の問題となり、存在論として扱うなら、1という数の問題となる。
  5. DEC
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    1.
    世界観の統一性も自己の統一性も、初めから=a prioriに私に対して与えられている訳ではない。だが、世界も自己も統一的な原理を想定することが可能である。勿論、そのロゴスですらもむしろ多元的な、複合的な全体性の協働から来る仮象に過ぎないかも知れないが。しかしながら、多数的な起源の否定も単一的な絶対者も何が違うだろう。私が立つべき地平に刻まれるべき対立があるとしても、それは私の世界観と他者のそれとの本質的な異質性であって、その本質的差異に比べれば、世界の全体的事象の概念的差異などは、何程のこともない。

    2.自己の世界観と他者の世界観

    イデオロギーとはその正しい意味では、共有されうる世界観であり、共有とは、所有に関する個人性=唯我性に対する、他者性による一つの止揚である。つまり、共有不可能な、私だけのイデオロギーとは語義矛盾である。だが、矛盾であることはそれが乗り越えられるべき課題である事を意味する。自己の世界観、自己の固有性、私の私=自我の問題とは、共有不可能なイデオロギーという矛盾が指示するある意識であり、この意識は匿名的意識=非人称性に関わる。

    3.精神・生命・物質

    物質は発展して生命となり、生命は高められて精神となる。この意味で物質は精神であり、精神は物質である。起源の物質は物質に先行する形態から生まれるので、物質以前の何かの性格を精神は回復しているかもしれない。意識が自己の物質的生命的な自覚を通じて他者世界における主体性を目覚めさせる時に、意識は精神である。

    4.意識の対象

    物質は意識の対象であり、ほかの意識、精神や心もまた意識の対象である。物質はしかしながら、単なる意識によっては絶対に包摂しきれない固有の否定性を有する。物質は一定の客観性を有するが、これは精神の客観性の低次の形態である。