たぶん日本のような先進国での民主革命は、都市型革命の形態では成り立ち難い。ローカルな、地域的な宣伝が成功することと、政権を有意に交代させることは同義だと思う。

ダサい、カッコ悪い、ウルサイ、貧乏くさいと思われている、各地域に根ざした街頭の宣伝に、一人また一人と立ち止まり、演説に普通の市民が、若者たちが耳を傾け、街頭で互いに議論する。価値観の、美意識の転倒が起こる。活動する者も、一般の市民の見方も、双方が変わる。

そういう本格的な民主主義的な街の在り方が現出しない限り、中央での有意な政権交代も難しい。

 

そもそも今あるような賃金労働(給与労働)じたいが全く歴史普遍的なものではなく、せいぜい、二百年やそこらの歴史しかない。元々、人間は賃金労働をするような社会を作ってはいなかった。半暴力的に、農民や職人が、賃金労働者にさせられたのである。

職人の技能労働や、農民(独立自営農民)の土地、共同体と結びついた生活と労働のスタイルに比べると、給与労働というのは、奴隷制にずっと近い。賃金奴隷というのは比喩ではない。
そのなかから、労働組合や政党の努力で、労働者の権利、労働法制の整備、可能な限りの給与アップを実現してきた。その努力ができなくなって、非正規雇用が蔓延。労働者は、ふたたび、百年前くらいの昔の状態に突き落とされかねない。

 

たとえばドゥルーズガタリが、ノマド遊牧民)の概念、ノマディズムを主張したのは60年代だが、政治思想的なコンテクストとしては、マルクス主義の労働論に対して、資本主義的な労働概念からは洩れるような、非欧米的な労働形態を提示する意味があった筈なのだが。そのご唐突に、ノマドワークという言葉が21世紀になって現れ一瞬で消えた。

労働の概念じたいも、非正規雇用の社会的主流化?のなかで、改めて問い直す必要を感じている。
このままでは非正規が社会的に正規の待遇で、正社員が特権化されてしまいかねない。

 

「時代」という観念じたいが、メディアによりフィクション的に形成されるある種の共同性だとするならば、歴史の「前衛」である、つまり時代を先取りし、時代の先端を走る党派が共産党であるということのためには、共産党がメディアのヘゲモニーを掌握しなくてはならない。前衛であるとはまた、労働者農民階級の前衛であることも意味する。ガードの向こうで戦う(avant-garde)とは、労働者農民の代わりに、その前に立って戦うことを意味したはずである。
言うまでもなく、そういうメディア戦の最大の武器が、独自メディアとしての、しんぶん赤旗である。

 

・実はポストモダニズムが作品を主体からー作者からだけでなくそれは、読者からの切離でもあったがー切り離した弊害が著しい。アルチュセールからフーコーに至る人間の死の言説もまた、こうした現状に責任があるのは間違いがない。テクスト主義は本来、ボードレールマラルメ的な宇宙観のなかであらゆる知的過程の連関を追及すべきだったが、矮小極まりない作品主義と、その裏返しの作家主義へと堕落したわけである。貧乏くさい形での、サロン芸術の反復でしかない訳だ。社会的連関のなかにおけるテクストの生というものへの真摯さが問われている。

 

 

・資本主義論について。共産主義を科学的、理論的に発展させる上で最大のインパクトを与えたのは、カール・マルクスというユダヤ系のドイツ人であり、ドイツのほか、フランスやイギリスで革命家として実践しながら研究を公表した。よく「共産主義を体系化した」などと書かれるが明確に誤りで、マルクスは独自の共産主義を主張したが、体系化はしていない。寧ろ体系化を拒むような著作が多かった。だが、後半生をその研究に捧げた、資本主義論である「資本論」は確かに体系性の高い書物であり、いわば資本主義論を体系化したのがマルクスであり、「資本主義」という言葉が世界的に使われるようになったのも、マルクス資本論の功績であろう。

マルクスは「資本論」で、アダム・スミスに完成をみた古典派経済学を批判しながら、資本主義という敵の姿を科学的な方法によって明らかにしたのだと言える。

 

 

社会主義リアリズムとスターリニズムを等号まで使ってしまうのが適切かどうかというのは疑問があるが、少なくともアヴァンギャルド(前衛)的な党員グループと、農民・労働者の立場を「標榜する」党員グループの間に歴史的な対立があったのは、これは科学性を標榜する知識人の党であることと、労働者農民の党であることの一定の矛盾を生きる政党である以上、不可避ではある。

前衛主義というのは余り今では歓迎されないのかもしれないが、理論機関誌の名は今も前衛である。

このアヴァンギャルドの失墜と知識人主義の失墜は、たぶん、スターリニズムの浸透と分かち難い。知識人主義はトロキズム、プチブル急進主義と結びついて、むしろ党外に新左翼諸党派を形成。今ではほぼ新左翼運動は終息。知識人概念も社会的に霧消している。

世代的継承の問題は大きく捉えるべき。
今ある高齢者世代からの継承だけでなく、この2世紀ほどの社会主義運動の遺産全ての継承の問題である、というふうに。

 

「狂気の歴史」にせよ「性の歴史」にせよ、社会がタブーとしてきた、あるいは新たなタブーとして隠蔽している狂気やセクシャリティという人間的な事象に、人文科学的な光を当てたものであろうし、その方法の前提になっているのは、ルイ・アルチュセールマルクス主義イデオロギー論を前提としたエピステモロジックな科学的言説論と権力論であろう。
イデオロギー論と科学認識論は関係が深いし、直接には、バシュラールアルチュセールの関係。