マルクスと宗教

共産党史を見ていたら、70年代の創共協定の顛末があって、宗教と共産主義という古くからの問題が脳裏を過ぎった。創価学会共産党が敵対をやめて協定を結んだこともあったのである。創価学会仏教原理主義とも言われ、日本仏教の多くと敵対関係にあると思われるが、創価学会公明党共産党敵視政策が、単なる宗教的理由や世界観の相違の問題ではなく、(宗教サイドに)より生臭い動機があるだろうことは、想像に難くない。だが、長年の醜悪な反共宣伝、謀略も、そろそろ時代遅れになりつつあるのでは。

 

マルクスは、資本主義社会を、資本ー貨幣を神とする神学的なシステムだと考えていた。だから、神学を哲学化したヘーゲル思想の批判が、経済社会の批判と等しくなる。だが、資本主義から共産主義が生まれるように、キリスト教ヘーゲル思想からマルクス思想が生まれた点もしっかり自覚していた。

 

マルクスの批判の根拠は、目の前の貧困である。そのために必要なら、貧困を認める社会が、言い訳として宗教を利用するのも批判する。また宗教を世俗化した哲学も批判する。だが、主敵は経済の矛盾であり、その表現である経済学である。

 

だが、マルクスはおそらく、キリスト教自身が暴力、戦争や経済社会への批判の意味を持ってきた側面には、あえて踏み込まなかった。そこには宗教への過小評価があった。革命は近いという判断にも見られる、マルクスの楽観論である。

 

 実際には、ロシアでも中国でも、宗教は猛然とした勢いを相変わらず振るっている。ソ連共産党の長年の宗教弾圧のなかを、ロシアのキリスト教は屈服せず、ソ連崩壊後、急速に民衆の信頼を回復したし、中国共産党の度々の弾圧政策のなかでも、今や中国のクリスチャンは世界一の信徒数に上る。レーニンはマルクスより宗教の強さ、恐ろしさに敏感だったのではないかと思う。

あくまで、宗教と共産党をめぐる私見であるが、私の記憶では、宮本顕治も蔵原惟人も、宗教政策一般は寛容だったのでは、と思う。