20170519
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共謀罪の委員会採決が強行された、5月19日の国会前。一万人の抗議者が集まった。

ポストモダニズムヘーゲル主義。反ヘーゲル主義はポストモダニズム通奏低音であった。ポストモダニズムとは一応は、フーコーデリダドゥルーズらの思想を重要なメルクマールとする戦後思想の一形態だと言って良い。その意味で興味深いのは、ポール・リクールの位置である。最近、フランス大統領に就任したマクロンは、聖書解釈におけるポストモダニズム的な功績のあるリクールの弟子であったらしい。まさにこの2010年代後半からは、新たな宗教問題が世界で噴出するのは間違いない。その意味で、マクロンの当選にはやはり、歴史的な意志が貫徹している。フランスもまた移民問題とテロという国内的難題を抱えている。

 

蓮實重彦には、「フーコードゥルーズデリダ」という薄い著作があるが、ポストモダニズムを主導したと言われる彼らは当然、そのような「イデオロギー」を否定し、自分たちはポストモダニストではない、そう明言した。だが、ジャーナリズムの分類概念と思想史的なイデオロギー概念とは区別されねばならないのと同じく、彼ら自身の自己意識や告白を、額面通りに受け取る必要はない。マルクス主義哲学者であった、ルイ・アルチュセールを始め、彼らにとって「イデオロギー批判」は大きな共通課題であったが、それ自体が一つのイデオロギーになり得る運命からは逃れられなかったのである。

 

熊谷俊人千葉市長のツイート、誰か周囲に諫める人間はいないのか。「日本は先の戦争を反省しました」従って民間のイベントでゼロ戦のエアレースを開催しても問題がない、と。だがこの時に、熊谷千葉市長が見ていない点は幾つもあり、それが誤った推論、判断として現れている。例えば。

 

 明らかに零戦は戦争目的で開発された。零戦大日本帝国とその戦争の賛美に用いる人々は、おそらく日本国内に何十万人単位でいる。日本即ち大日本帝国は、世界史的に恥辱ある犯罪行為、巨悪を行った事実は、無反省な日本人を除けば、世界における常識、通念である。にも関わらず、少なからぬ日本人が、この間の政策的なプロパガンダを頭から信じ込み、日本の戦争は正しかったと理解している。日本人の多くは既に、戦争の反省など忘れ、その歴史的事実自体を恣意的に修正する人々によって、また新たな戦争へと導かれようとしている。あるいは、我々は既に断崖から転落しながら、空の夢を見ているかも知れない。

それが、「戦争を反省した国」、日本の現在である。

 
キリスト教の名の元に、これまで何千万人も殺害されてると言い得るように、「日本」の名のもとに、太平洋戦争だけで2500万人の人間が殺害された。熊谷俊人のように、「反省しました」で済む話ではない。またそのように過去の罪から、表面的に自由になる事により、同じ罪を繰り返すのが人類である。彼は共産党の名前も理論も、スターリンや中国の誤りがあっても変えない(言うまでもなく、その認識が誤りだが)事実を例示するが、誤った形態が過ちを犯したからといって、正しい存在が名前や思想を変える必要は全くないのである。

 

・人間の名のもとに、これまで何億人も殺害されているだろうが、人間や社会という組織やその理論を否定したら、何も残らない。過つのも人間だが、過ちを正すのも人間である。

 

 

 

1960年代に書かれたアルチュセールによるマルクス研究は、21世紀の我々には理解しやすい。しかしまた同時に、アルチュセールが問うているのは、そのような理解と必然的に関係を持つ理解しえぬものがテクストには常に潜在し、そのような不可視の潜在性とテクストの表面とが絶えず相互の意味を規定しあう構造性であり、理解された内容そのものが複数の意味を働かせているような認識論である。私はアルチュセールのテクストのなかに、マルクスを見出し、アルチュセールを見出し、また他に様々な意味の主体が関わっているのに気づく。

 

 アルチュセール資本論からマルクスの哲学へ」。
どうだろう?アルチュセールにはニーチェ的なモチーフが明瞭であり、それは彼のカトリシズムという出自からして一定の了解はできるものだ。アルチュセール的な「構造」の概念が、ヘーゲル的な「全体性」への批判というモチーフから導かれたものであり、ヘーゲル全体性批判がナチズム的な全体主義への批判という歴史的なプロブレマティークの一契機であった事実も明瞭である。問題はマルクスの「哲学」が、一つには、資本論の資本主義研究に結実するマルクス自身の世界観であった点と、資本論が資本主義研究であって、哲学であることをマルクスは標榜しなかっただろう点に跨がる。アルチュセールはいわば、非弁証法的な「種差的な」差異としての、マルクス思想と哲学体系の違いを意識はしていたのだろうが、たとえば、西洋的な「科学」自身の相対性に関しては、ヘーゲル程には謙虚でなかったように見える。

 

アルチュセールヘーゲル本質論への批判を読むと、彼は、本質と非本質の弁証法的な矛盾統一、つまり非本質は本質であり、本質は非本質であるという相即的な関係を語らず、本質概念の宗教的な詐術を批判している。これはヘーゲル理解として、マルクスに明らかに劣る。マルクスは、本質が非本質と対立する内的なものでありながら、同時に非本質を含む外的な全体性である点を当然知っていた筈だ。弁証法が基本的にはそもそも二元論ではなく、二元論批判だった経緯が充分に意識されていないのではないか。たとえばある物的対象は本質的実在、分子や原子の構造物であるが、ヘーゲルとて、概念論や本質論において、本質としての本質を扱う時でなければ、分子や原子という実在を離れて本質が存在していると見ていた訳ではない。そう見えるとしたら、人間のような精神を本質論的に扱う場合であろう。つまり、人間の意識の段階、対自段階の本質論(いわゆる観念論の本領、イデア、概念の世界)と、物的世界の本質論(物質としての原子論的な成り立ち)との区別が明らかでないのではないか。
ヘーゲル的に述べるなら、対自的な本質論と即自的な本質論の対立と統一である。