イエス、マルクス

 

 カントを中途で断念したのは、倫理について学ぶうえではどうしても聖書についての考察を経なくてはならない必要を感じたためであった。誰にとっても聖書が必要と書くつもりはない。それはクルアーンであっても仏典であってもあるいは構わないのかも知れない。わたしにとっては、聖書が体質的に合っているということにおそらくは過ぎないのであろうと思います。多神教であれ一神教であれ、神、彼岸、こういうものについて一度突き詰めて考えなばならない私的な必要を痛感している訳です。その道を軽蔑したり恐れて回避していては何時まで経っても堂々巡りを繰り返すことにしかならないだろうとわたしには思われたのです。

 

 ところで、堂々巡り、という言い方自体、宗教的な起源を持っているかのようにわたしにはみえます。

 輪廻とか、日常の労働の繰り返し、循環論、反復。こういうものと宗教とは切り離し得ないところがあるのではないでしょうか。

 もっと直截に、内的な信仰への欲求があるのだと書くべきかも知れません。

 ある種の空虚感であるとか、ニヒリズム的な傾向を、時代の責めに帰すような精神的習慣から決別したいという欲求が形をなしてきたのだと書くべきかも知れません。

 そこで、どうしても突き当たるのが、マルクスとイエスの立場の違い、といいましょうか。キリスト教史のうえでは、わたしは、キリスト教社会主義といわれる潮流、解放の神学、こういうものに関心があるけれども、やはりマルクスエンゲルスの立場とは、調停しがたい懸隔があるのではないか、と、思います。

 勿論、マルクスエンゲルスは、宗教批判をその出発点に持っています。だがいうまでもなく、批判するためにはその対象を内的に熟知している必要があります。果たして二人の批判は十分なものであったでしょうか。より精確を期すならば、二人は宗教批判の完了を宣言するところから始まっているともいえます。批判そのものはむしろヘーゲル左派と呼ばれた人々の、とりわけフォイエルバッハの仕事でありました。

 わたしたちは過去に宣せられた結論から始めようとしてしまう。

 だが、結論は出発点に過ぎない訳です。どうも、マルクスエンゲルスのものとされている宗教批判の立場というのは、外面的、あるいは超越的な批判の域を出ていない場合が多いのではないか、と、感じられるのです。これは、たんに私的な内面的問題との関係から推測されるだけではなくて、社会主義国家における宗教問題の歴史を一瞥すれば納得されうると思います。

 大きなところでは、中近東における共産主義運動とイスラム革命のもんだいがあり、旧ソ連や中国における宗教的伝統の根強さ、というものがあります。これらは、不十分であったり誤った宗教政策の結果であるとのみ総括できるものだとは思えません。やはり、マルクス主義の教説は、宗教を吸収したり、その代替手段となることは十分にできない、ということだと思います。そうである以上、宗教にも適切な社会的な位置を与えられてしかるべきであり、マルクス主義的な無神論というものは、諸宗教の調停者としての意義にこそ積極的なものを認めるべきなのではないか、と、思っています。