疑念と憧憬と

 日本共産党の党員数が飛躍的に伸長しているという。

 ほぼ四半世紀、いやそれ以上の期間にわたって見られなかった現象である。

 赤旗を購読している私の許へも、日本共産党の町議会議員の方がみえられて、PR用のDVDを下さった。

この町では町議が毎日赤旗を配達している。頭が下がる思いである。


 わたしは以前、某派の学生運動に身を投じていたことがある。そこでひらかれた学習会で最初に学んだのが、日本共産党の負の歴史とでもいうべきものであった。だがわたしは半信半疑であった。40万を数える党員を擁するからには、たとえ理論的な偏向はあろうとも、それなりの訳があるだろう。むしろそれを確認したいと思っていた。某派の構成員が指摘するような、マルクス主義からの逸脱というのはおそらく事実なのだろうが、時代はポストモダンである。大きな物語の失効ということが人口に膾炙して長い月日が経っていた。そのなかで、マルクス主義の理論的無謬性のような仮構は信ずるに足りなかったのであるから、日本共産党の戦後の軌跡は、寧ろ当然であるように思われていた。

 

 今にして思えば、私の某派への傾倒は、一部のムスリム原理主義的偏向と対応するような身振りであったかも知れない。私には、原理主義的傾向への共感があった。というのも、新左翼諸党派の理論には、レーニン及びマルクスへの純粋な回帰、という性格が存在しているからだ。

 

 理想は絶えることがない。

 それは幾多の血を流しながら我々を導いていく他ないようなものである。