朱雀の、啼く

文学と、政治と。

意味について

 意味について問うというともすれば古風な振る舞いをわたしは自分に禁ずることができない。色々な声が聴こえる。曰く、「意味などというものは幻想に過ぎない。そんなものは忘れてしまいなさい」「意味について問うとおかしくなるよ」「無意味こそが我々の出発点である」「意味を創造することです」云々。しかし、そのようなどの声にもわたしは、どこかしら後ろめたい敗北と臆病さとの翳が射しているのを感じるように思います。本当でしょうか。「意味」は、ほんとうに問わなくていい対象になったのでしょうか、それは何故。 むしろ、「意味」をめぐる混乱こそが、現代社会を特徴づけているように私には感じられてならないのです。シニフィアン、というような術語を敢えて用いる必要は感じません。シニフィアンをめぐる諸理論の渉猟は糧になるのかも知れないが、その過程で失われてしまいがちなものにこそわたしは着目をし続けたいのです。 意味とは第一に、何らかの対象にいわば外部として含まれているものです。言葉の意味とは、その言葉が指し示す他の複数の言葉の形で表わされることができますが、それ自身はその言葉の意味ではなく、それら複数の言葉への参照を促すような諸々の指示性の混成、関係構成物としてあるものです。「外部として含まれる」と書くと矛盾を呈しているようですが、まさにそのような矛盾した表現を要請する本質を言葉の意味は構造として持っているのでしょう。(ところで、signifiant/signifieの概念対は、やはり能記/所記という訳が適切であるように思います。signeを意味でなく記号と訳すのであれば。こういう所からも意味についての誤解が生じかねないし、私としては、むしろ「しるし」「しるすもの」「しるされるもの」というような語を用いてみたいです。記号化するもの、記号化されるもの、でもいい。signeを徴と訳す向きもありますが、これもなかなかいいのではないでしょうか。)いいえ、記号論はいいのです。私が問いかけたい意味なるものは言語や諸記号をめぐる言説がかろうじて比喩として参照されうるようなものでしかないのです。事は寧ろ疎外論一般に関わっているような予感がします、マルクス主義的なそれならずとも。