朱雀の、啼く

文学と、政治と。

猶も、存在し続ける根拠

 「現代詩手帖8月臨時増刊 吉本隆明」(1972、思潮社)に所収の幾つかのエセーを読む。当時の状況的な知識を充分に弁えていないので、その理解には自ずから限界が生じざるを得ないのですが、詩人としての吉本隆明の像をいくらかでも明瞭にすることができる一書であると思います。批評家としての吉本隆明は深く状況の渦中にあって闘争を持続した人であって、そういう「知識人」の姿を今日では殆ど見かけることができません。知、というものの社会的な在り様が現在とは遠く隔たっています。一方で、芸術作品としてのかれの詩は、さしたる前提的な知識がなくても、ある程度現代詩に親しみがあれば味読することが可能なものです。時がたつにつれ、状況的な発言の理解には一層の困難が立ちはだかってゆくのでしょうが、詩作品については、遥かに長く読み継がれてゆくことが可能だと思います。さて、本書においても、吉本隆明の活動の動機を構成している経験として、皇国少年として迎えた敗戦の体験と戦後社会への絶望が指摘されていますが、こうした動機は現在では共有することに困難を感じさせられます。では、そこにある時代的な断絶は乗り越え不可能なのかといえば、必ずしもそうではない。というよりも、そのように扱うべきではない。吉本隆明の自意識においていかにその動機が前景化されていようとも、そうした経験的な動機のさらに向こうには、より普遍的に人間的な、ある根拠があるようにわたしには思われます。人間はいつの時代にも、その人生の歩みを進める過程で、時代的・社会的なものとの格闘と受容を、またその変容への働きかけを余儀なくされていて、これはひとつの人間の条件をなしています。その点においては、現在の若者も敗戦後の若者も本質的に何ら変わる所がありません。たとえばこうした角度から、現在でも猶、吉本隆明の言説や作品に向かうことが可能です。そしてこうした過程に終わりというものはおそらくはあり得ない。もし、そのような時代との葛藤が熱を帯びていない時代があるとしたら、何らかの制度が葛藤を遣り過ごすように機能しているものとみて間違いはないと思います。そのような仕組みには自然的なものも人為的なものもあるでしょうが、いうまでもないことは、現在はそのような高度に管理された時代のうちにあるということです。