朱雀の、啼く

文学と、政治と。

高専の頃までを、少し

 もう長いことギターに触っていない。また、復活させたいと思う。

 わたしには小さな和太鼓の楽団をやっている兄がいて、日常的に音楽に携わっているかれが少し羨ましく感じられる。ひのき屋、といって、CDも発売している。ヨーロッパ、アジア、南米、各地を演奏旅行したり。グループは昨年、函館市で大規模な国際民俗芸術祭を取り仕切った。わたしは観に行けなかったが、NHKのローカルでその模様が放送されているのを見ることができた。試みは今後も持続するのだろうと期待。http://wmdf.org/。はこだて国際民俗芸術祭(WMDF)のページである。

 14歳頃だったろうか、わたしがギターを始めたのは。始めてすぐにバンドを結成して。わたしの実家はかつてスーパーを営んでいて、閉店し使われなくなった店舗が物置のようになっていた。そこを練習場所にした。ドラムセットを運びこんで、古いただ大きいだけのアンプやスピーカーを繋いで。練習場となった店舗のバックヤードは、ほそぼそと水産業を営んでいた父の仕事場になっていた。小さい頃から父の仕事を手伝わされていたものである。帆立貝、蟹、海胆、それに様々な魚たちを、氷と一緒に発泡スチロールの箱に詰めてゆく単純作業である。古いラジカセで、カセットテープにダビングした様々なロックやポップスの音楽を大音量で流しながら、作業を進めた。

 田舎とは言え、静かな住宅街。

 バンドの練習はそうとうな近所迷惑だったろうと思うのだが、不思議なことに一度も苦情を受けたことはなかった。かなりの音量で、周辺に鳴り響いていたのだが。そんなことも意に介さない、やんちゃな少年時代であった。練習を終え、一人きりになっては読書をしていた。萩原朔太郎中原中也高村光太郎。小説はこの頃がいちばん読んだと云えるかも知れない。村上龍を好んで読んでいた。外国のものでは、ゴールディングの「蝿の王」が印象深い。サローヤンも好きだった。村上春樹もこの頃に読んだのが初めてだったと思う。だが、龍の方が圧倒的に好きだった。「限りなく透明に近いブルー」や、「コインロッカー・ベイビーズ」。「愛と幻想のファシズム」、「長崎オランダ村」などが思い出される。三島由紀夫太宰治もこの頃に初めて読んだ。わたしは太宰の方が好きだったし、今でもそうである。

 中学校では、卒業に際してのイベントで、強引にライブを敢行した。先生を説得した。前代未聞だったろうと思う。その頃、わたしの脳裏にあったのは、芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」だったかも知れない。のちに映画化されるが、笑いながら読んでいた記憶がある。その頃は、エックスやボウイといった日本のロックバンドのコピーをやっていた。

 家は貧しかったが、誰が好きだったのか、大きなステレオセットがあって、母の実家に埋もれていた古いレコード盤を発掘しては、冬の寒さにもめげずに聴きこんでいた。ステレオがある部屋は、窓が破れたまま放置されており、そこから雪が吹き込んでくるような空き部屋だった。スピーカーに耳をつけるようにして、かがみこんで聴いていた。

 そんな訳で、年齢から考えると聊か奇妙ではあるかもしれないが、最初に「ロック」を感じたのは、ビートルズなのである。ストーンズもあった。サイモン&ガーファンクルとか。のちにピストルズを聴いて、「パンク」を感じた 笑 多感な十代前半である。嗜好は目まぐるしく変わった。

 函館市におかれた国立高等専門学校に入学して、軽音楽部に入部して、さかんにライブ演奏をするようになった。エアロスミス、ニルバーナ。あうん堂宇宙塵、といった函館市のライブハウスが思い出される。練習場所は、部室の他には、サウダージ・スタジオや、楽器屋さんのスタジオを利用していた。軽音楽部の部室には高価なアンプやPAのセットが取り揃えられていて、一般に大学受験もなく自由な校風だったこともあり、授業をサボっては部室の鍵を手にして引き篭もっていた。授業にはてんで関心が向かなかった。一年生の終わりには中途退学を決意して、期末試験をボイコットして担任の先生に翻意するよう寮の自室で延々と諭されていた。今となってはその頃の心境を思い起こすことは簡単ではない。何もかもが嘘、欺瞞であるというような認識に耐えられなかったのだろうか?社会不適合というような言葉でわたしは済ませたいとは思わない。そういう面は少なからずあっただろうし、それは現在でも変わらないのだが、都合のよい概念で自分を慰めることにしかならないように思われる。そういうことと無関係ではないのだが、何かしら「芸術的」な衝動が、時代・社会と本質的な意味で調和しうるという幻想をわたしは持ち合わせていない。無論、調和的なものも必要ではあるが、それは根底的に批判性を有していないことには作品としての価値は十分ではないと常々思っている。また、平和主義的な思想というものが何かしら美徳のように受け取られるような傾向があるけれど、そんなことはありえないのは勿論のことである。平和主義は常に社会にとって危険なものであり、そのような勢力間の緊張関係を失っているならば頽廃でしかない。いや、美徳であることには違いはないのだが、美徳の追及は反社会的なものに転ずるということを云いたいのである。倫理性と社会的規範とは常に葛藤に苛まれるようにできている。ところで、ソクラテスとイエスは共に、いわば共同体に殺害される訳だけれども、その死が孕んでいる意義は本質的に異なっている。その差異を見極めたいが、別の機会に譲ろう。

 カート・コバーンが亡くなってまだ日が浅かった。当時、北海道ローカルの深夜の音楽番組で、特集が組まれていたのを見て鳥肌がたったのを覚えている。司会はのちに公明党国会議員になる丸谷佳織だった。

 始めは寮に暮らしていて、ルームメイトはよくパールジャムを聴いていた。サッカー部のいい男だった。当時はやはりグランジだとか、60年代風のもののリバイバル的な現象があって。それから、自分たちで作った曲を演奏するようになっていったが、やはりそういう雰囲気があった。ドアーズをよく聴いていた。発表当初は酷評されたらしいが、中学生の頃にテレビで、オリバー・ストーンの映画「ドアーズ」が放映されていて、感化されたのであった。映画は、ドアーズ、殊にボーカルと作詞を担当していたジム・モリソンの生涯を伝記的に再現したものである。かれは長い間わたしにとってのスターだった。太くて、それでいて金属的な響きを持つシャウトに感応させられた。「水晶の舟」のようなうつくしい歌詞。

 リードギターは石神くんという、他校の音楽マニアのような少年に任せて、わたしは弾きながら歌っていた。石神くんは、たしか高校浪人をするというこのあたりでは風変りなといっていい経験をしていた。ジャックスが好きだった。みんな鬱屈していたなあ。そうそう、渋谷系の音楽が流行していて、石神くんはそういうものにも感性的に通じていたのかも知れないのだが、過剰に音楽が好きすぎるだろう、という 笑 印象を当時持っていた。いまどうしているだろうか。フリッパーズ・ギター、それにピチカートファイブ等々。ソニックユースを知って、静かな驚きがあった。ノイズに目を見開かされたといっていいと思う。Diamond Seaの感動的なギター。以来、ロックは雑音だ、と信じて現在に到っている。ノイズへの感応性がないと、ロックは辛いと思う。それで、ノイズとは何だろう。わたしには当時、名もない人々の生がひそかに挙げている叫びのように聴こえていたものだ。

 当時作っていた曲の歌詞を、思いだせるだろうか?

 やってみる。



 束の間の眠りは風に攫われて

 ぼくらを 遠い遠い 町へつれて行った

 鉄道の途切れた そのさきの

 雨の降らない わすれられた町

 太陽の照りつける 乾いた朝 望みもない

 捨てられた子犬だけが 回り続けてる

 そんな市場ぬけて 声を追いかけて

 捩れた森のなかを 転んでいった

(サビ)

 こんなところで生きていていいかと誰か問いかける

 

 

 

 

 くらい。

 やめればよかった。

 こんなのも、あった。



 (軽快なポップ調で)

 

 誰かが朝 鳥を殺した

 それから ほら 雪が降ってる

 ほら 見て 噂を剥ぎ取れば醜い空だ

 吸い込まれそう

 ほんとうのことは 云えないけどね



 うーん。

 いやらしい。この頃、併行して近代の文学に親しんでいた。そうそう、ライブで唐突に詩の朗読をさせたりした。ランボー

 何はともあれ、無邪気だが何かしら悲痛なものがある青春時代だったと今は思う。何にせよ、みんな手作りだった。上京して大学へ入ってからが問題といえば問題だ。さっぱり音楽はやらなくなって、専ら読書と文芸創作に励んでいた。世間からは過激派といわれ罵られる学生自治会に出入りして、政治的なデモンストレーションにも参加するようになる。大学では文芸部に所属した。のちに作家になる樺山三英や、詩人の杉本真維子らがいた。

 音楽、文芸、信仰、政治。それらは、わたしにとっては同じ所から湧き上がる欲求であるように思える。キリスト教マルクス主義の文献のあいだをふらふらしている。

 いま、特に好きなミュージシャンというと誰になるのかな。学生の頃にようやくクラシックも聴くようになったのだが、さしたる教養もなく、手当たり次第に聴いているだけだ。中学生の頃から一貫して聴き続けているのは、中島みゆきさんかも知れない。最近は、黒人霊歌にも関心を持っている。関心の幅は広いのだが、いかんせん無精なために実際には余りま新しいものに手を伸ばしていないという現状がある。