朱雀の、啼く

文学と、政治と。

memo

 現代詩とポエム、なる対立概念を用いることに、どれほどの意義があるだろうか。それは寧ろ、真の対立を覆い隠す幻想ではないのか。ポエム、は、現代詩の主流を自認する立場からの蔑称である。だが、「現代詩の主流」とは何か。そんなものが実在しているのだろうか、それもまた、現代詩=詩、の真の姿を覆い隠す幻想的な観念に過ぎないのではないのか、という疑念がある。寧ろ、ポエムと現代詩とは相互補完的にあるのではないのか。弱さへの偏愛は倒錯である。怨恨の匂い。だが、怨恨の観念もまた慎重に取り扱われなくてはならない。ルサンチマンの否定を口にする意志がルサンチマンに満ちていることなどありふれた光景である。肯定されるべき怨恨がある。蔑称をもって自任するのは奇妙である。ポエムが反逆するのであれば、ポエムの立場からする自己規定が必要である。実のところ、詩には、書き手から書き手へと流れをなしている複数のエコールが存在している、また、その脇で点をなす存在もまたあるだろう。だが「現代詩」は、外的にして恣意的な観念に過ぎない。現代詩もポエムも存在しない。書く意志と書かれるべきものとの交点、読む意志と読まれるべきものとの交点に成立している作品こそ我々が求めているものである。趣味判断、の観念によっては、芸術現象を総体的に理解することはできない。それ自体ひとつの芸術観を前提している。ゼロの意志。それは全てを、単独的に、再構成すべき意志である。そのような意志こそが(現代)文学の名に値する。世界系批判と疎外論批判、の反批判の必要。文芸の目的を明確にすること。享楽概念の重要性。快楽とも娯楽とも異なる所のそれ。怒りの大切さ。敵を憎み憤怒する心情の正当性。政治闘争と文学的闘争、芸術的闘争。いかなる感性が守られ、いかなる感性が滅ぼされるべきなのか、ということ。わたしは断固滅びない、憎み闘争するなかで変容し、生き残りたいと思う。吉本隆明のくらさには訳がある。鮎川信夫の暗さにも訳がある。美、とは何か。美の観念の顕揚。