朱雀の、啼く

文学と、政治と。

その雪に、さわれない

 雪が降っている。昨日の明け方から降り始めたのは仕事中だったので確認したが、まさかもう積もるものだとは思っていなかったので、真っ白く雪化粧をした窓の外の光景には驚かされました。まだ、自動車のタイヤを冬用のものに交換していないのが聊か気がかりではあるが、路面状態はそれほど悪くないので、もう少し余裕がある筈だと呑気をしています。免許も初の更新の時期。よく、この私が、事故もなく安全に過ごせたものだとおもう。

 しばらく以前に、ヘルダーリンの詩作品に触れたのがきっかけになって、また、ヘーゲルを読み返しています。「精神現象学」。哲学史上稀に見る難解の書、なる評言もネット上に散見されるくらいだから、難しい、とぼやいても誰も怒らないだろうと思うし、ま、わたしの怠慢なり無能力のせいばかりとも限るまいと思う。

 どうも、ドイツ・ロマン主義の季節が、わたしにおいて到来しているらしい。以前からあったキリスト教への関心や、詩を宗教的な構えのなかで考えるべきであるというような自分の考えや、一身上の事柄とも深く交差している。世間一般の時代的な趨勢からいっても、たとえば日本浪漫派の再考というのは、時宜を得ているように感じられるのだが、如何なものだろう。保田與重郎亀井勝一郎、このあたりの著作にも関心がある。当然、橋川文三の批判は押さえておかなくては仕方がないのだろう。おそらく、ヘーゲルについては、同時代のロマン主義的風潮との差異をこそ計られねばならないのだろうが、やはり、ヘルダーリンとの関係などは至極わたしの関心を引いてやまないところがある。たとえば、ヘーゲルにとって、詩とは何であったのだろうか。精神現象学のはじまりの部分、感覚的確信や知覚をめぐる章では、うんざりするほど執拗に、直接的=無媒介なもの、また言葉の指示性と認識の関係について、その矛盾性について論じられているが、その辺りを読んでみても、これは何か、安易なる詩的直観への批判に通じるような配慮があるのではないか、といった思いが脳裏を掠める。そういう予感が何度も読み進める意思を損なおうとするのだが、2章ほど読み進めて、ようやく、おぼろげながらもヘーゲルの姿が浮かび上がってきているように感じている。

精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))

精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))

 そもそもは、わたしはマルクスへの関心からヘーゲルに触れるようになった。近代以降、現在に至るまで、世界的な思想とされるものの非常に大きな部分を占めているのは、ヘーゲル批判に他ならないと思う。マルクス然り、ニーチェ然り、サルトル然り、おそらくバタイユも、あるいはフーコードゥルーズデリダも、この系譜に連なるものと言ってよいように思う。そうした批判の系譜の推移するうちに、ヘーゲル的なものがついに忘却されつつあるのが昨今ではないか、という認識が一つあって、だが批判の意味というものは批判対象への参照・理解があって初めて成り立つものであることは論を俟たない訳であって、ヘーゲルに取り組みたい、などという大それた欲望を抱いた次第である。サルトルバタイユ、それにラカンなどもそうだったと思うが、コジェーブによるヘーゲル講義に出席している。ヘーゲルこそは、19世紀以来の諸思想の導火線の役割を果たしてきたと言って過言ではないのではないか。

 学生の頃には、黒田寛一を経由して、武市健人梯明秀の著作にさらっと触れたことはあるが、今度はそういう媒介なしにヘーゲルを読み進める努力を傾けたいと思っています。戦前の京都学派のヘーゲル受容であるとか、興味はあるんだけれども。

 詩についていっても、ロマン主義の詩については、余りになおざりにされているきらいがあるのではないだろうか。現代詩は、少なくとも詩論においては、吉本ー北川のラインと、入沢ー野村、城戸に至るラインがあって、いや入沢というのは詩人としては特異な存在であって、寧ろマチネーの系譜にこそ野村、城戸を位置づけるべきなのかも知れないが、わたしは北川透の詩論にいくらか蒙を開かれた者である。だが、その北川ですら、ロマン主義については実に冷ややかな態度を示しているように思われてならない。ロマン主義軽視の問題は現代詩の貧困化の問題であり、ポエムなるものの問題でもあり、また日本の詩史が抱えざるをえなかったある固有的な問題に関わっているのではないか、という疑念があるのだが、如何なものだろうか。詩の黄金時代はロマン主義に他ならないのではないか、とすればロマン主義の軽視はまた詩の軽視にも繋がってくるように思われてならないのである。