朱雀の、啼く

文学と、政治と。

断片 9

 戦後詩、というカテゴリーは、だいたい1970年頃のものまでを指すらしい。戦争のあと、という形で、「第二次世界大戦」の行われた時期をひとつの画期として定めているのだが、それはたんに世界史上の時代区分に倣ったものではなくて、詩史上にも、明らかな変化が、この時期を境にして生じていると認められるのである。わたしは1978年の生まれだが、現代詩=戦後詩、という等式を、基本的には捨てていない。もちろん、以後、現在に至る膨大な作品群にも関心はつねに持ってはいる。だが、現在のものが、戦後詩の流れとの切断において、全く新たな方法によって書かれているのではなく、戦後詩の蓄積された方法的遺産のうえに成立している事実は明らかである。現代詩の現状を指すとき、いわばポスト戦後詩、という括りを用いるのが、本当は妥当であるように思う。そうである以上、現在の作品をあるべきようにみつめ、対峙するためには、戦後詩の忘却は何の益も齎さないという判断がある。では、「戦後詩とはなんだったのか」。これは繰り返し反省されてきた問題ではある。いま、ひとつ思い当たることは、一般に詩、芸術というものの歴史的ー社会的な機能への反省が、鋭く問われた時代であった、という点である。「詩はなんのためにあるか」という目的論的な問いであり、このような目的論は、現在に到るポストモダン社会では一般に忌避されている。吉本隆明ですら、何のためにならないものがあっていいじゃないか、などと発言する時代なのである。なんのためにもならないものがあって、いいじゃないか。わたしはそれには全く同意する。何らかの目的のための手段とみなしたとき、詩作品を味わう心の余裕は失われてしまうということがある。だが、このような「目的論の否定」の風潮を、人間や社会というものに当てはめたとき、それが実はある種のニヒリズムと表裏をなす関係にあることに気づかされるのだ。目的を否定するとき、同時に、意味=方位は喪失される。ポストモダンニヒリズムの共犯関係である。これは同時に、あらゆる変革への意志をも挫かせる働きを有するだろう。ポストモダンの流れを形成した思想家の多くが、ニーチェの影響下にあったことを考慮すれば、それは自明の理である。また、若き吉本隆明から、上述のような発言が飛び出すことはあるまいとも思う。