朱雀の、啼く

文学と、政治と。

受洗を控えて 1

 プロテスタントの教会に通い始めて一年がたち、翌月に洗礼式を控えている。聖書通読はなかなか捗らない。まだ受洗には準備が足りないようにも思われ、申し訳ないような気持ちでいる。洗礼を薦めて下さった牧師、ご承認頂いた教会員のみなさんには、感謝の言葉もない。洗礼式は、クリスマス礼拝の中で執り行われる。幼稚園、教会学校との合同礼拝になるので、聊か、緊張させられる。

 キリスト教の信仰を一言でいい表すとしたならば、愛、ということに他ならないだろうと思う。わたしは、自己自身に、愛が溢れていると思って、教会の門を敲いた訳ではけしてない。まったく逆である。どうしようもないほど愛を損ない、失っているという自覚から、それを求めて、教会を訪れた。また、世に愛の言葉は溢れているが、ほんとうの愛とは何だろうかという問いに、その分からなさに、耐え切れなかった所もある。だが、これらはまったく主観的な動機に過ぎず、決定的な導きは、聖霊の働きとしてあったという聖書に依る解釈を、わたしは受け入れたいと思う。わたしは、あらゆるものから見捨てられたような思いで、帰郷した。その見捨てられ、空っぽになった自分を、導いてくださる外部の存在があったということを、わたしは信じる。聖霊の扱いは、プロテスタント内部でも多様であるらしいが、いまわたしは素朴に、その働きを「信じて」いるといえる。

 回心、という言葉がわたしにとって相応しいかといえば、恐れ多く、そんな奇蹟的な現象が自分にとって成立したと認めることはおこがましく思えるが、洗礼を受ける決意に回心が伴うものとしたならば、自分は随分遠回りをしてきたように感じる。この遠回りを、無益なものとはしたくないし、それが今後、信仰という堅固な支柱をえて、自分にとっても他者にとっても、糧となるようでありたいと思う。教会までは、徒歩3分とかからず、通っていた幼稚園を運営していて、またわたしは幼少期には日曜学校に通っていたのだが、こんな近くに、いわば自分の足元に、真理や愛や永遠といった憧れへの扉が開かれていようとは、思ってもみなかった。