Facebookより転載集

 

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ツイッターで回ってきた、後藤健二氏の写真。
授業風景だろうか。

 

「差別をしない」

「尊い命である」

 

この生き生きとした心を、
多くの人々が、共有できますように。

 

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数千年の文明の歴史をへて、
まだ、
命の尊厳すら護ることのできない、
我々である。

この悲しみから、
繰り返さぬ力が、咲き誇りますように。

 

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思想というのは恐ろしいもので、人間の人生を、生死を左右してしまう。たとえその内容が真実でも、多くの人間は、家庭や仕事、世間体、自分の人生の幸福を優先するために、なるべく思想や真実から逃げ、距離を置こうとする。要するに、認識における臆病さが、認識を歪めるという現象は、非常に多い。

歴史的現象を、いくつかの構成要素に分解することができる。一回的、偶然的な要素もあれば、反復的な、必然的な要素もある。また必然性のある一回的な要素もあるし、反復的ながら偶然的なものもあるだろう。

世界大戦のような巨大な現象もまた、そのなかに偶然的な要素もあれば、必然的な要素もある訳だ。そして人間の行動が一般的に反復や循環で成りたつ以上、歴史社会も反復する。経済なら代表的なものに景気循環がありますね。

世界大戦が二度と起こらないためには、最低限、戦争の原因をなした必然的な要素が、社会から取り除かれなければならない。それが十分に除かれていないならば、歴史構造にとって、再びの大戦は必然的に来る筈である。無論、除去はしないが、繰り返さぬ努力を加えることは可能であるが。

日本は敗戦で民主化したから戦争は起こらない、などというのは、気休めに過ぎない。
世界最大の民主主義国家は、世界最大の戦争国家であり、このかんの戦争の殆どは、世界最大の民主主義国家が遂行しているのである。

単純素朴にファシストに戦争責任を転嫁集中させるから、民主主義では戦争は起こらないというイデオロギーに盲目になる。なぜファシストは生まれたのか。その社会的な、歴史的な構造に目を向ければ、その原因が、同じように、民主国家をも戦争に駆り立ててきたことが分かる

戦争というのは、兵士や国民にとっては、一命を賭した危機なのだが、権力者にとっては、会談や商談の一手段に過ぎない。

 

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何かISILは交渉不可能な極悪集団だという扇情的なツイートが流れてくるが、過去に何度も人質を解放している事実を忘れてはいけない。バース党残党で高等教育を受けた連中なんだから、戦略的に極悪なテロ戦術を取り、過激な暴力主義を選んでいると見るべき。

交渉不可能ということを簡単に口にすべきではない。交渉不可能とは、戦争以外に道がないことを意味する。交渉可能性を追究するから文明を標榜できるのであって、暴力で解決するなら、自分たちもテロリストになるしかないことを意味する。

 

 

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かなしい。
あらゆることがらが、かなしい。

 

 

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単一の法則性が展開して、様々な領域と様々な領域における法則に分化したと考えられる。たとえば四則演算における法則性と、社会学的な法則性と、文学理論とは、必ずしも矛盾しない。

そういう原初的な法則性をロゴスといい、ヘーゲルは真理として探求したのだろう。しかしロゴスを神と同一とするのは留保すべき筈だ。

伝統的には絶対性と神を等値するだろうが、この絶対性が相対性との対立にある形式的絶対性ならば、留保が必要だ。弁証法的には、神は相対性と絶対性のアウフヘーベンであるべき筈だから。

形式的絶対性を神と取り違えるのは、サタンを神と取り違えるに等しいのかも知れない。

ヘーゲルはたぶん、カントの形式主義を、ユダヤ主義と同様に考えているから、形式主義的な絶対性は、キリスト教サイドから見たユダヤ主義、律法主義と一致する。

始原のロゴスと、その展開と、終局のロゴスとはそれぞれ、時間性を導入しつつ区別されなくてはならない。

絶対的なものから相対的なものが分化発生すると、既に始原の絶対性は失われ、相対的なものとの関係においてある第二の絶対性に変貌している。

むしろ無時間的なものが時間的になることで絶対性は失われると言うべきか。

 

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アフガンやイラクは不当な、誤った戦争だった。つまり、我々は間違えて百万人の民衆を殺害するのに手を貸したのではないか。
それに比べたら、二人の日本人の命やいくらかの金が何だろう。償いにも、なりはしないのではないか。そういう視点も持って貰わないと。

 

フランスやイタリアなど非英米のヨーロッパ諸国は類似の事件のなかで、身代金を支払っている。いかに時間を引き伸ばし、対話し、交渉するか。ISは商売で拉致しているのではない。金以上の戦略的メリットが得られるなら、それも交渉材料だろう。

もし人質が惨殺されるなら、国民を守る責務を負う国家が、テロリストに敗れて、国民の命を失ったことになる。それは、身代金を支払う以上に、政府の責任を損なうことだと思う。支払えば負け、ではない。国民の命を奪われることが敗北なのである。

 
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教養というのは、ドイツ語で、自己形成、という意味ですから、教えによって自己を養うという意味。教養は大切だけど、"私は教養がある"という発言ないし自己認識は、教養によって豊かな自己を持っていますという事を意味するので、ただ読書家で知識が豊かなだけでは、教養にならないんですね。ギリシャ的な乃至ルネサンス的な人格性の理想。

まあブリコラージュといったりジャンクと言ったりするのは、システマティックな教養観に対する批判の含意はあれ、人格性そのものを不問に付したわけではない。人間主義批判というのは、人間概念を構成する価値観のイデオロギー性への批判であって、階級や時代のなかで、適切な人格性や人間性こそ目的化したものと弁えております。

 

 

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ドイツでは特に、知識と良心や感性の関係が、観念論の時代に盛んに議論された。キリスト教の理解とも当然関連してきますね。ロマン主義的な教養概念が日本にも導入された部分は大きいと思いますね。
人格性や人間性の理念=目的は、あらゆる事象を包括する倫理的な理念であって、類的、ないし集合的な理念として、一切の人間活動を統制するものだと思います。腹が減っては綺麗事は言えぬ、罪も許される、という判断が仮に成り立つとして、それが許されるという判断すら、倫理的な理念に基づく判断である、というような意味です。

 

 

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ヘーゲル大論理学武市訳の理念の章を読んでいて、
ヘーゲルー政治的ロマン主義ナチズムの流れが何となく了解できた。
純粋への情熱が、偏狭な人種主義に転用されることで、アウシュビッツになる。
だがヘーゲルが言っている純粋=永遠というのは、神そのものを指しているので、意図的な転用でなければ、誤用だろう。

民族、人種以前に、それを包摂する人類の概念に対しての純粋性に照らした時、ホロコーストによる人種的純粋性などは、まさに不純なる異物として粉砕されざるを得ないし、歴史の狡知は、まさにそのように働いた。

人種的に純粋であることは、人間的に不純なんだよね。

 

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単一の法則性が展開して、様々な領域と様々な領域における法則に分化したと考えられる。たとえば四則演算における法則性と、社会学的な法則性と、文学理論とは、必ずしも矛盾しない。

そういう原初的な法則性をロゴスといい、ヘーゲルは真理として探求したのだろう。しかしロゴスを神と同一とするのは留保すべき筈だ。

伝統的には絶対性と神を等値するだろうが、この絶対性が相対性との対立にある形式的絶対性ならば、留保が必要だ。弁証法的には、神は相対性と絶対性のアウフヘーベンであるべき筈だから。

形式的絶対性を神と取り違えるのは、サタンを神と取り違えるに等しいのかも知れない。

ヘーゲルはたぶん、カントの形式主義を、ユダヤ主義と同様に考えているから、形式主義的な絶対性は、キリスト教サイドから見たユダヤ主義、律法主義と一致する。

始原のロゴスと、その展開と、終局のロゴスとはそれぞれ、時間性を導入しつつ区別されなくてはならない。

絶対的なものから相対的なものが分化発生すると、既に始原の絶対性は失われ、相対的なものとの関係においてある第二の絶対性に変貌している。

むしろ無時間的なものが時間的になることで絶対性は失われると言うべきか。