「沈黙」(スコセッシ、2016)も視聴した。小説に慣れている方ならば、遠藤周作の小説を読んだほうが遥かによいとは思うが、一般向けには良く出来た作品だろう。相次ぐ拷問シーンが辛いが、原作にある信仰そのものから来る辛さとは少し違う悲惨さである。

 

スコセッシ「沈黙」で気になるのは、信仰の維持や転びの問題に、主の働きが不問にされ、人間の努力や意思による問題であるかのように見える所かな。余り信仰の不思議さ、御霊の働きという面は描かれない。

およそ現実の出来事、歴史には内的な次元がある。キリシタン弾圧、厳しい拷問は、なくてもよい外的な偶然でなく、キリスト教の信仰そのものが個人の内面において、必然的にこの世で持たねばならぬ質や性格、運命が、外的な迫害という形でも現れたのだと思う。

だから拷問そのもの、外部から加えられる棄教への暴力はそれ自身として問題なだけでなく、個人の信仰の内的な発展の道筋のなかで、迫害が自分自身の問題になる。その意味では、常に我々は迫害されてあるのではないだろうか?そして、迫害している者もまた、自分自身ではないだろうか。