フェイスブックより20160925

あるテクストを読むとは、それがいかに客観性を意識した方法を用いようとも、結局は自己の精神ーそれは身体性と経験とを契機とする自己自身、自己の本質、理念としての自己であって、単なる知的機能ではないーと、テクストという身体性を有する精神との牽引と反撥の運動に他ならないのである。そのようなテクストとしての法、わけても日本国憲法を自己がいかに【読む】か、それが個人による日本国憲法の受け止めである。法学的な方法論に則って憲法を研究することも、そのような読みをより正確にすることで、豊かな精神的経験たらしめるためのものであり、それは司法の官吏による審判行為そのものですら、それを目的として遂行されてこそ本来的であるだろう。その意味で、どれだけ自己が日本国憲法を経験しえているかは覚束無いが、法の経験とは、単に文字列として形象化された法典の読解に限定さるべきものではない。法が共同体の歴史的=普遍的な精神の表白である以上、共同体におけるあらゆるあなたの経験と反省とが、また同時に日本国憲法の読みでもあるのである。

09272015

Cahier09272015

 

  • ヘーゲル大論理学の体系的理解。各章の相互関係を整理すること。
  • マルクス資本論の学習。哲学的論理による資本主義概念とマルクスの経済学的論理における資本主義概念とを峻別する必要が有る。マルクスの立場は体系的というよりも体系性批判であり、資本主義が完全に閉じた体系であれば資本主義批判も資本主義の没落もありえない。一定の体系性を有した論理的法則に支配された社会として資本主義社会を捉えるべき。

体系性の標榜は完全性の標榜であり、資本主義は体系性を偽装することで自身の永遠性を人々に印象付ける。

  • 「真理」観におけるヘーゲルデリダの批判。(絶対)理念は最高の真理である。(理念と絶対的理念の区別は相対的・慣習的なものに過ぎない)。すなわち絶対性と相対性の区別は「それ自体」相対的区別が絶対的区別か。相対性と絶対性との関係をいかに捉えるか。また、マルクスによる批判「理念とは哲学者の貨幣である」即ち、諸概念=商品と、理念=貨幣。フォイエルバッハの「人間ー神」の論理を前提か。
  • 「真理」観におけるヘーゲルデリダの批判。カントの真理観も参照のこと。
  • ヘーゲルは絶対理念=絶対者=真理の認識は可能であるとしたが、ヘーゲル思想における絶対理念の論理構造を歴史や宗教的論理として把握しても、それは絶対理念そのものの認識ではない。絶対知=真理は、あらゆる相対的真理が明らかに知られた時に初めて把握されうるものであり、ヘーゲルが提示した絶対知の論理は、真理についての一定の形式的な、モデル的な論理構造に過ぎないと見るべきではないか。