フェイスブックより20160925-2

主体性論も結局は、自己の生きる根拠の問題になってくる。ヘーゲルが大論理学の一章を根拠論に割いていたのを連想する。弁証法論理で言えば、主体性と従属性は矛盾対立しつつ本質的には統一されていて、これはsujet(仏)の語義の変化にも現れている。
主体性が問われるのは、常に変化しつつある状況においてであるだろう。同一性からはみ出すような事態に対して、過去と同一的でありえない個が、従属するか主体的たろうとするかの選択を迫られる訳だ。

主語と述語の矛盾以前に、主語と述語の分裂がある訳だ。そこから世界が開闢する。根源的な権力関係であり、差別の根拠である。

 

フェイスブックより20160925

あるテクストを読むとは、それがいかに客観性を意識した方法を用いようとも、結局は自己の精神ーそれは身体性と経験とを契機とする自己自身、自己の本質、理念としての自己であって、単なる知的機能ではないーと、テクストという身体性を有する精神との牽引と反撥の運動に他ならないのである。そのようなテクストとしての法、わけても日本国憲法を自己がいかに【読む】か、それが個人による日本国憲法の受け止めである。法学的な方法論に則って憲法を研究することも、そのような読みをより正確にすることで、豊かな精神的経験たらしめるためのものであり、それは司法の官吏による審判行為そのものですら、それを目的として遂行されてこそ本来的であるだろう。その意味で、どれだけ自己が日本国憲法を経験しえているかは覚束無いが、法の経験とは、単に文字列として形象化された法典の読解に限定さるべきものではない。法が共同体の歴史的=普遍的な精神の表白である以上、共同体におけるあらゆるあなたの経験と反省とが、また同時に日本国憲法の読みでもあるのである。