共謀罪、雑感

人生に意味があるのかどうか、私は知らないが、人生に意味があるかないか、どちらかであるか、どちらでもあるのだろう。
もし治安維持法で信念を曲げずに死んでいった人々や、ゼロ戦で特攻した若者たちの人生や死が無意味なら、いけしゃあしゃあと戦争で利益をせしめた人々の人生も無意味だ。治安維持法で拷問の果てに死んだ人々の死や人生に意味があるならば、平和を享受する我々の人生にも、意味がある。相対的な程度の違いでしか、ないからだ。共謀罪がどういう結果を招こうとも、あと50年生きて死ぬか、3年生きて死ぬか。どちらにしても我々は死ぬ。間違いなく。

雑記

アルチュセールの「難解さ」と「気軽さ」。カントとヘーゲルの理解が全ての基礎となる。マルクスアルチュセール弁証法的な差異を考える必要。ヘーゲルの一見、整合的に「見える」テクストの外貌とその微小な論理の振動の向こうにある真にヘーゲル的な思想。非合理主義としてのマルクス思想を一考する必要。

・経済学の合理性。資本主義が閉じた体系出ない以上は、資本主義思想も無矛盾な体系であることはできない。そもそも「無矛盾な体系」自体が理念でしかない。近代合理主義思想だけでマルクスも資本主義も捉えられない。

・私が敢えてマルクスを考え、論ずるなら「資本論」と「ドイツ・イデオロギー」、「経済学哲学草稿」及び「ユダヤ人問題」だろうか。今、マルクスから導出されるべきは民主主義論、共産主義に包摂されその前提になるような民主主義論であり、資本主義の内的な危機性=可能性である。未来は危機から生まれるものだから。

・未来志向の文学とは、新しい倫理の萌芽を肯定するようなものであるほかない。ルネサンス文学が近代ヒューマニズムと共にあったように、新たな世界の中の新たな人間性を、より本質的な自由の可能性を育むのが文学精神の新たな定在でなくてはならない。