投票行動にも、正しい投票の仕方、というものがある。それは、投票という行為の本質、目的を満たす投票である。投票は、代表者を選出する行為である。代表者を選出する行為であることと、不適切な現在の代表者を落選させることは同時に起こるが、あくまでも選出のための投票であって、非選出のための投票ではない。従って、代表者としてふさわしい者に投票するのが正しく、ふさわしくない者を落選させる投票は誤りである。

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理念というものは、人間の歴史と共に古い。何万年もの歴史がある。百年や二百年で諦め、捨てられるものは、理念ではない。理念を根拠に憲法を守り、安倍政権に反対し、戦争法に反対するのだから、一年や二年で捨ててしまう者は、全くお話にならない。

マルクスだってギリシャ以来二千年の思想との対決のなかで、共産主義思想を鍛えたのである。それでも二千年だ。我々の政府批判の根拠は、数万年の人類史を貫徹する理念であるべきだ。それが自由であり、平和であり、幸福にほかならない。

私は個人的に、今回の政党合併には裏があると不審。泡沫であることが誰の目にも明らかな希望党に、なぜ民進党が吸収される?明らかに怪しい。民進党を吸収して大量議席を獲得しても、一年も持たずに解体するはずだ、希望党。

アメリカ政府筋の介入ではないかな。

民進党の、共闘の理念に背く背信行為に抗議する。

共産党は、全国に候補者を擁立して、市民本位で、安倍政権と戦います。

「計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営」。これが、日本共産党が目指す日本経済である。

「沈黙」(スコセッシ、2016)も視聴した。小説に慣れている方ならば、遠藤周作の小説を読んだほうが遥かによいとは思うが、一般向けには良く出来た作品だろう。相次ぐ拷問シーンが辛いが、原作にある信仰そのものから来る辛さとは少し違う悲惨さである。

 

スコセッシ「沈黙」で気になるのは、信仰の維持や転びの問題に、主の働きが不問にされ、人間の努力や意思による問題であるかのように見える所かな。余り信仰の不思議さ、御霊の働きという面は描かれない。

およそ現実の出来事、歴史には内的な次元がある。キリシタン弾圧、厳しい拷問は、なくてもよい外的な偶然でなく、キリスト教の信仰そのものが個人の内面において、必然的にこの世で持たねばならぬ質や性格、運命が、外的な迫害という形でも現れたのだと思う。

だから拷問そのもの、外部から加えられる棄教への暴力はそれ自身として問題なだけでなく、個人の信仰の内的な発展の道筋のなかで、迫害が自分自身の問題になる。その意味では、常に我々は迫害されてあるのではないだろうか?そして、迫害している者もまた、自分自身ではないだろうか。