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1960年代に書かれたアルチュセールによるマルクス研究は、21世紀の我々には理解しやすい。しかしまた同時に、アルチュセールが問うているのは、そのような理解と必然的に関係を持つ理解しえぬものがテクストには常に潜在し、そのような不可視の潜在性とテクストの表面とが絶えず相互の意味を規定しあう構造性であり、理解された内容そのものが複数の意味を働かせているような認識論である。私はアルチュセールのテクストのなかに、マルクスを見出し、アルチュセールを見出し、また他に様々な意味の主体が関わっているのに気づく。

 

 アルチュセール資本論からマルクスの哲学へ」。
どうだろう?アルチュセールにはニーチェ的なモチーフが明瞭であり、それは彼のカトリシズムという出自からして一定の了解はできるものだ。アルチュセール的な「構造」の概念が、ヘーゲル的な「全体性」への批判というモチーフから導かれたものであり、ヘーゲル全体性批判がナチズム的な全体主義への批判という歴史的なプロブレマティークの一契機であった事実も明瞭である。問題はマルクスの「哲学」が、一つには、資本論の資本主義研究に結実するマルクス自身の世界観であった点と、資本論が資本主義研究であって、哲学であることをマルクスは標榜しなかっただろう点に跨がる。アルチュセールはいわば、非弁証法的な「種差的な」差異としての、マルクス思想と哲学体系の違いを意識はしていたのだろうが、たとえば、西洋的な「科学」自身の相対性に関しては、ヘーゲル程には謙虚でなかったように見える。

 

アルチュセールヘーゲル本質論への批判を読むと、彼は、本質と非本質の弁証法的な矛盾統一、つまり非本質は本質であり、本質は非本質であるという相即的な関係を語らず、本質概念の宗教的な詐術を批判している。これはヘーゲル理解として、マルクスに明らかに劣る。マルクスは、本質が非本質と対立する内的なものでありながら、同時に非本質を含む外的な全体性である点を当然知っていた筈だ。弁証法が基本的にはそもそも二元論ではなく、二元論批判だった経緯が充分に意識されていないのではないか。たとえばある物的対象は本質的実在、分子や原子の構造物であるが、ヘーゲルとて、概念論や本質論において、本質としての本質を扱う時でなければ、分子や原子という実在を離れて本質が存在していると見ていた訳ではない。そう見えるとしたら、人間のような精神を本質論的に扱う場合であろう。つまり、人間の意識の段階、対自段階の本質論(いわゆる観念論の本領、イデア、概念の世界)と、物的世界の本質論(物質としての原子論的な成り立ち)との区別が明らかでないのではないか。
ヘーゲル的に述べるなら、対自的な本質論と即自的な本質論の対立と統一である。

 

民主文学3月号。田島インタビュー感想。

文学精神、という言葉で私が考えるのは、言語的コミュニケーションの主体としての精神という、第一の素朴な意味である。

聞き、話す主体である私。私の内部の、聴取する私と発話する私の主客分化。外的コミュニケーション=外的反省と、内的コミュニケーション=内省。

こういう「言葉」の行為により精神が生まれ、精神活動の成長により、言葉は豊かになる。

寧ろ文学こそ、あるいは言葉こそ、精神の故郷である。唯物論は一般に、経済や物質代謝の本質性を強調する余り、時に精神を後回しにする傾向があるかも知れないが、言葉は精神の経済である、という観点も常に重要ではないか。