朱雀の、啼く

文学と、政治と。

転載

園子温といえば「ジーンズを履いた朔太郎」とも評される現代詩人として活動を始めた鬼才。私は学生の頃、同じく詩人の杉本真維子に彼の第一詩集を紹介され、衝撃を受けた記憶があります。

本日付赤旗に、長く国内の朝鮮学校の子供たちと共に戦い、自身、教鞭も取られている、詩人の河津聖恵さんの新刊の書評が掲載されています。


企業団体献金と利益供与の関係は、もし具体的に不法な・意図的な利益供与がなく、全体的な政策実行の結果として当該企業に利益が発生したのならば、献金は許されるのか、という話になってくる。

そもそも、「なぜ」政治が私人や団体のお金で動いてはならないのか、という所を踏み込んで再び明らかにする必要があるのではないだろうか。
なぜ贈収賄が不法とされているのか。

安倍などは恐らく、「政治がお金で動くの当たり前でしょ、経済最優先でやってるんだから。新自由主義的な経済学的に吟味した政策の結果が大企業優先なんだから、悪いことをしているのではない。大企業に利益を与えてこそ、全体の経済が回復する」こういう論理でしょ。それがあのクックックという含み笑い。

ここでも、要するに「理念」が忘れられて、「人間はお金で動くのが当たり前」という露悪的な世界観になってしまっている。人生も国家も、幸福や自由という理念に向かい、自らの意思で動くべきものであって、経済はその手段として、毒にも薬にもなるという大前提が忘れらがちではないだろうか。

そもそも観念論的な国家のイデオロギーを批判し、経済が世界を動かしていることを喝破したのはマルクス主義サイドなのだが、それを自堕落に・露悪的に肯定しているのがネオコン安倍政権なのではないのか。

マルクスの「理念とは哲学者の貨幣である」という唯物論的な含蓄ある一文は、とりあえず置いておこう。

 あくまでも、階級の観点から、ブルジョワ経済学は、ブルジョワ階級 の利益のための壮大な贈収賄肯定の理論、あるいは理論の形をとったイデオロギーとして考えなくてはならないのだろう。


気迫漲るね。そもそも政治の本来の姿はこうした運動であり呼びかけであり集会であって、国会はそれを形式化、制度化したものでしかない。ダラダラと官僚の用意した答弁を読み上げるだけの国会など、腐敗した本来性の成れの果てなのだ。