20160925-3

「根源的利己性」と「暴力的ペシミズム」について言語化しておきたい。「根源的利己性」と私が呼ぶのは、ホッブズが著書「リヴァイアサン」で描き出したような、自然状態における人間の「万民の万民に対する闘争」、どんな個人も自分のためにしか生きられないのだから、自分のためにだけ生きるのが自然であり、正義であるという思想である。これはキリスト教が厳しく問う人間の本質としての「自己を神として絶対化する」自己中心の人間観であり、また、「自己目的的自己」というふうにもアプローチできる(実存主義)。

「暴力的ペシミズム」と私が呼びたいのは、あらゆる人間的な事象は煎じ詰めれば暴力であって、そこから社会が成り立つという思想である。なるほど、確かに自衛権も警察権も暴力と考えることが可能であり、民主主義の発展、世界史の飛躍は常に暴力を契機としてきた。

だが、これらの「常識」もまた、あらゆる人間的な概念と等しく、絶対的真理ではありえない。
我々はこれらの常識への根底的な批判の道をこそ、歩むべきである。

 

フェイスブックより20160925-2

主体性論も結局は、自己の生きる根拠の問題になってくる。ヘーゲルが大論理学の一章を根拠論に割いていたのを連想する。弁証法論理で言えば、主体性と従属性は矛盾対立しつつ本質的には統一されていて、これはsujet(仏)の語義の変化にも現れている。
主体性が問われるのは、常に変化しつつある状況においてであるだろう。同一性からはみ出すような事態に対して、過去と同一的でありえない個が、従属するか主体的たろうとするかの選択を迫られる訳だ。

主語と述語の矛盾以前に、主語と述語の分裂がある訳だ。そこから世界が開闢する。根源的な権力関係であり、差別の根拠である。