fbより

伝記的事実はよく知らないのだが、ヘーゲルは多分、フランスの大革命の経験を人類史の中でどう評価するか、そこから何が得られるか、そう言う問題意識のなかで自己の哲学思想を展開したのだと思う。それが若い世代の意識と一致して、ドイツにヘーゲル学派の時代を築いた。マルクスもそのような時代のなかで、ヘーゲルを通して革命と歴史を洞察し、また哲学思想の狭い世界では現実変革はなしえない、という結論から、唯物論共産主義に移行した筈である。思うに、フランス大革命の急激な進歩と悲惨、挫折と反革命という「運命」は、ヘーゲルにとって、詩人ヘルダーリンの運命と二重映しになっていたのでは。ヘルダーリンが発狂して幽閉されたように、フランスの革命も歴史に幽閉された。再びフランスに革命が生じるまでに、半世紀の時が必要であった。

 

ヘーゲル精神現象学、精神の章。精神とか理念とか、理性という言葉を我々はよく用いるが、その意味を深く考えたことのある人は少なかろう。ヘーゲルは少なくともその模範を示す。ここで言われているのは、理性が精神になる、精神と呼ばれるためには、理性はどんな働きをなさねばならぬか、そう言うことである。勿論、殆ど全ての人間は、精神としての理性を有しているが、人それぞれ、程度の差異がある。ある人は非常に理性的であるが、ある人はあまり理性的ではない。では理性とは、その最も純粋な、極端な形態、理性そのものである時には、どんな姿をしているか、そう言うことである。ここでは、理性が全実在と一致する程度が最大となった時には、それは精神であると言われている。

 

観察の真実は、観察している時に生じている主体と客体との対立が廃棄された時に成立するものであって、対象のなかに何かをー真実や、自己自身をー「見つけて」いるうちは、まだ理性(=観察的理性)は十分に精神ではない、とも書かれている。つまりこれは、いわゆる「主客の統一」が精神の条件であるということである。

 

観察的理性ー存在している、のくだりは、「存在」という規定そのものが、理性的ではあっても精神的ではないことを示唆しているものと読む。存在と無の対立そのものがアウフヘーベンされて初めて成り立つのが精神である。ただし、これは宗教的な悟達の問題ではない。そうではなくて、人間である限りみな、相対的な程度の差異はあれ、そのような精神を有しているのである。

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20160925-3

「根源的利己性」と「暴力的ペシミズム」について言語化しておきたい。「根源的利己性」と私が呼ぶのは、ホッブズが著書「リヴァイアサン」で描き出したような、自然状態における人間の「万民の万民に対する闘争」、どんな個人も自分のためにしか生きられないのだから、自分のためにだけ生きるのが自然であり、正義であるという思想である。これはキリスト教が厳しく問う人間の本質としての「自己を神として絶対化する」自己中心の人間観であり、また、「自己目的的自己」というふうにもアプローチできる(実存主義)。

「暴力的ペシミズム」と私が呼びたいのは、あらゆる人間的な事象は煎じ詰めれば暴力であって、そこから社会が成り立つという思想である。なるほど、確かに自衛権も警察権も暴力と考えることが可能であり、民主主義の発展、世界史の飛躍は常に暴力を契機としてきた。

だが、これらの「常識」もまた、あらゆる人間的な概念と等しく、絶対的真理ではありえない。
我々はこれらの常識への根底的な批判の道をこそ、歩むべきである。