帰郷ということ
秋のつめたい風がふくと、どうしてかわたしの意識には、殺風景な、神田の町並みが思い出されてしまう。
東京から帰ってきて、格別の感慨はない。
いや、と躊躇いを感じる。感慨がないというよりも、感慨を持つことを、みずから禁じているようです。
どうしてだろう。
帰郷、ということが、ほとんど不可能になっていることも、わたしは知っていたではないか。
北海道が植民地であり、自分が植民地人であるという自覚を、遠く離れた東京の地でわたしは初めて持った。
帰郷、ということは、近代文学における大きな主題のひとつです。
だが、それは多く、伝統的なものへ回収されてゆくか、それへの違和を示しつつ帰郷の不可能性を記すか、いずれかの流れに注ぎ込むようなものだったと記憶している。
故郷としての植民地、という主題は、その流れとはなかなか交わらない。
そこでは、故郷の概念じたいが、批判に晒されねばならないからです。
そこからわたしは、コロニアルということのもうひとつの意味に突き当たらざるを得ない。
植民地的なものが、いいかえれば外地的なものが、内地にたいして反照する過程である。
いわば、すべてのものが、否応なく、植民地的であることに巻き込まれている。
植民地的なものと、資本主義的なものとは、兄弟のようなもので、資本主義が発展すればするほど、文化的なものは、植民地化を発展させる。
そういう事情があるのだろう。
浮遊すること、そして空虚。
こういう主題もまた、故郷と故郷喪失のテーマの変奏である。
故郷喪失のテーマは、キリスト教以前から存在する、原型的なものであるが、それが高度に発展した資本主義社会において復活している。
ところで、主題と言いテーマというが、それはフィクションを含めた言説の問題であるだけではないのです。
物語の概念と言説の概念との差異もまた、見極められなくてはならないだろうが、わたしにとって重要なのは、主題というものが、たんに絵空事として突き放され、秤にかけられて選択されうるような、都合のよいものではない、ということなんです。
これは、人間の自由ということと関わるけれども。
また、言説の概念の流行は、物語から切断された主体、いわば浮遊し溶解するする主体性の在り方と不可分です。それは飽くまで資本主義的なものであって、万古不易の人間性に基づくものとはいえない。
不易なる人間性の本質、それは、自由です。
自由という本質規定と、諸関係の総体という規定とは表裏をなす。
結局のところ、文学というのは、近代において、物語への批判ということに意義を担って現われているけれども、物語の失効は、文学の失効でもあったという。いま根底的に問われなくてはならないのは、物語のほうだという感触がある。この失効は、解放として喜ばれるべき手合いのものではない。
その負の効果は、社会の至る所に現われているではないか。
こうしたことは、中上健次のいう物語、そこから連想されたものにすぎない。
中上の物語概念は、当然だがたとえば蓮実重彦のそれとも違う。かれ固有の物語なるものの深さを、わたしはもう一度確かめてみたい思いがする。