朱雀の、啼く

文学と、政治と。

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共同幻想論は長年積読してありまして、手つかずのままで恐縮なのですが、イデオロギーと吉本のいう三つの幻想領域は近い所にあるようですね。同一である訳ではないでしょうが。マルクス主義は経済的下部構造に何らかの程度において規定されるものとしての上部構造として人間の意識諸形態、即ち法や国家や芸術などを扱う視点を開いた。吉本隆明は、この意識諸形態の形成にあたって貫徹せざるをえないような法則的な意識現象を指して、幻想という概念を駆使したのではないかと推察致します。イデオロギーとは上述のようなマルクス主義の古典的な公式に従うならば、下部構造と具体的な意識の諸形態とを中間的に媒介する意識現象ということになろうかと。同一の法律上の規定をめぐって、階級的な立場から、対立する解釈が争われる時、そのような二通りの対立する解釈が成立するにあたって、意識しようがしまいが、階級的イデオロギーの作用がなされているものと、たとえば考えうるような気が致します。ではなぜ吉本はイデオロギーというタームを用いイデオロギー論としての思想を歩まずに、幻想という視点からこの意識諸形態をめぐる思想を切り開いたのかといえば、一つには、イデオロギーという言葉に対して余りにも多様な歴史的な意味の負荷が担わされていた事情もありましょうし、階級対立というものをマルクス主義の人々ほどには真剣に向き合わなかった、向き合いたくなかった、向き合うべきでないと判断した態度があったようにも思えますし、硬直した教条的な左右両派のイデオロギー自身を、唯物論的な立場から、幻想として相対的に扱うような場所で考えたかったのではないかと。また幻想として扱うことで文学、ひいては文化の総体と法や政治とを同一平面に配置することが可能になる。イデオロギーの概念は政治的意志と強固に結びついていますが、そのような政治的結合以前の、いわばイデオロギーの前段階に於ける意識法則の考察として、吉本幻想論は位置づけることが可能なのではないかと推察致します。いわばイデオロギーイデオロギーとなりますかね。こういう立場は、教条主義的にイデオロギー固執する態度を柔軟化する、主体とイデオロギーとの間にある隔たりを、ある媒介性の存在を明らかにするという点で、評価にあたいするものかと思っている所です。

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